1964年(昭和39年)〜
「東京オリンピック開催」
「東京モノレール開業」
「東海道新幹線開業」
「3億円事件」
「アポロ11号有人月面着陸」
出生の時
3月20日 湯の里、大分県別府市で産声を上げる。
ともたろうは幼少期に両親をなくした。
以来祖母の元で2人きりの生活を送る。
1970年(昭和45年)〜
「日本万国博覧会開幕」
「沖縄返還」
「田中角栄日本改造論発表」
「石油ショック」
「長嶋茂雄引退」
ガキ大将時代
小学校4年生の時、新聞配達をしながら家計を助けた。
時々ヘビやクワガタ虫を捕まえて売りさばいたりし、わんぱくぶりが困窮した生活に潤いを与えることもあった。
阪神タイガースの選手に憧れ、無理やり仲間を集めて北浜タイガースという野球チームを作る。
この頃ウルトラマンも好きで、近所の観光ホテルの屋上にダンボールを運びウルトラ基地を作る。
仮面ライダーに変身することもあった。大人になった今も、仮面ライダーカードを集めている。
1976年(昭和51年)〜
「ロッキード事件」
「日航機、日本赤軍にハイジャックされる」
 「王貞治756本の本塁打」
の世界最高記録樹立」
「日中平和友好条約調印」
「キャンディーズ解散」
「成田空港開港式」
強さにあこがれ友達を思う時代
中学1年生の時、空手家の大山倍達に憧れる。電車に揺られ隣町の空手道場に通う。
貧しさ、寂しさを思わせない明るく優しい男に育つ。
1979年(昭和54年)〜
「初の国公立大学一次試験が実施される」
「インベーダーゲーム流行」
「ポートピア’81 開幕」
「東北上越新幹線開業」
「第2次石油ショック」
「東京ディズニーランド開園」
旅立ちの時代
晴れて中学校を卒業したものの、生活は困窮を極め地元の高校に進学することが出来なかったため、最愛の祖母と別れ単身上京した。15歳の誕生日のことだった。
一念発起し東京にやっては来たものの、手持ちの金はほとんど尽きていた。
初めてのひとり暮らしは、神田川が眼下に流れる3畳一間のアパートで始まった。その時持参していたのはカセットテープと卒業アルバムだった。
清掃会社のアルバイトをしながら、明大中野高校定時制に通った。いつも空腹だった。
周りの同世代の人達とあまりにも違う自分の生活環境に驚いた。
「同じ年でこの差はなんだろう」と思い悩んだ。
社会のしくみに対して率直な疑問を感じることができたのは、とりもなおさず自分自身の特殊な生い立ちのせいなのだと確信した。
1984年(昭和59年)〜
「グリコ・森永事件」
「阪神フィーバーが社会現象」
「日本初の女性党首誕生」
夢実現に向けての準備時代
「将来は政治家になる!」と決めた20歳の春、アルバイト仲間の5人と共にビルメンテナンス会社設立を決意した。政治家になる前に、まずは社会人としての自分の力量を試したかったのである。
最初は下請け会社としてアルバイト先の会社から仕事を受注する、個人事業を立ち上げた。
同業社との助け合いで何とか経営をやりくりした。というよりも辛うじて倒産は免れていたと言ったほうが正しいか。
事務所は自宅の四畳半の部屋を使った。机がひとつと電話が1台あっただけの殺風景な事務所だった。まさしくSOHOの走りだ。

しばらくは厳しい経営状況が続き、従業員の給料や清掃機材等の調達に苦労した。事業主であるともたろう自身、食事代すらままならなかった。極貧生活に中々終わりは来なかった。
会社設立の資金作りのために日夜、汗水を流し続けた。
この頃は今と違い、ともたろうの体形はスリムだった。
1986年(昭和61年)〜
「チェルノブイリ原発事故」
「男女雇用機会均等法施行」
「三原山が209年ぶりに大噴火」
「国鉄が114年の歴史を閉じJR6社等発足」
「青函トンネル開業」
「東京ドーム球場開場」
会社設立当初の時代
努力が実り、会社設立の準備が整った。ともたろうは21歳になっていた。
鰹髏シ企業を設立し代表取締役社長に就任した。会社名は本人が通っていた極真空手の道場が「城西支部」だったことと、登記した場所が世田谷区給田(東京城西地区)にあったことを由来とした。他に沢山の案があったが、ともたろうの鶴の一声で決定した。

事務所兼住まいは風呂も流し台もない2階立てのプレハブ小屋であった。下水道は通っておらず、当時でも珍しい汲み取り式のトイレだった。
当然エアコンはなかった。だから夏はより暑く、冬はより寒かった。しかも安普請で強風が吹くとあちこちの隙間から砂ぼこりが入ってくる有り様だった。
過酷な職場環境だったが、自分にとっては立派な城であった。
共に頑張ってきた仲間達も満足げだった。

当時の主な仕事は、命の危険を伴う窓ガラスの清掃であった。他の会社が敬遠しがちな仕事を率先して行っていた。
この頃の経験が、ともたろうの決して崩れない強い心をつくった。
「無理なことなんてないからな」とはその頃からの本人の口癖である。
徐々に仕事も従業員も増え、事務職を入社させるまでになった頃には随分と会社らしくなっていた。
1989年(昭和64年)〜
「昭和天皇大喪の礼」
「消費税スタート」
「参議院議員選挙で与野党逆転」
「東独、ベルリンの壁を実質的に撤去」
「ルーマニアのチャウシャエスク政権崩壊」
「美空ひばり逝去」
会社飛躍の時代
副業として宅配レンタルビデオやトイレの衛生商品の販売に手を伸ばそうとしたが、企画倒れに終った。
社員達をもっと良い待遇で雇うために、方策を色々模索していた。
さらなる業績向上のために、とにかくガムシャラに働くことを決意した。
年号が平成に変わる頃、初心に帰り民間の飛び込み営業や官公庁発注の業務に力を入れた。当初は悪戦苦闘し、見積もり依頼があった位でガッツポーズをしていた。
やがて努力は実った。
東京都の物件を契約できたことをきっかけに、仕事の受注は飛躍的に増えていった。他の会社との付き合いも多くなり、着々と人脈作りを進めていった。
1992年(平成4年)〜
「第39回総選挙」「第2次海部内閣」
「雲仙普賢岳が200年ぶりに噴火」
「日本人初の宇宙飛行士」
「ワルシャワ条約機構解体」
「宮沢内閣成立」
「大相撲貴花田、史上最年少で優勝」
出会い・結婚の時代
現在の妻である智雪(ちゆき)と出会ったのは、お互いの友人同士の結婚式だった。彼女を見るなり、ともたろうは一目惚れした。
「ビビっときた!」と言ったかどうかは謎である。

智雪は練馬区関町南にある芝勝商会(造園業)社長の長女であった。このことがともたろうが練馬に根を下ろすきっかけとなった。ともたろうの温厚で気丈な性格に智雪の父も惚れ込んだ。

結婚式は中野サンプラザの大ホールにて、盛大にとり行われた。
1993年(平成5年)〜
「Jリーグ開幕」
「徳仁皇太子と小和田雅子さん、結婚式」
「プロ野球でフリーエージェント制度実施」
「田中角栄氏逝去・75歳」
「リレハンメル冬季五輪」
「大関貴乃花65代横綱へ」
「青島都知事、都市博中止を決断」
「将棋の羽生善治、初の七冠制覇」
長女の誕生・政治の世界へ
結婚して1年後、長女の涼が誕生。
ともたろうにそっくりなので周囲の人達からは大人気だった。
会社の方は営業エリアを拡大し、事業規模が格段に大きくなってきた。
「もう会社が潰れる心配はないだろう」と思った頃、ともたろうは政治の世界へその第一歩を踏み出す決意をした。
単身上京し若干15歳で自活をしなければならなかったあの時に感じていた、社会への確かな違和感は忘れていなかった。

極真空手の先輩であり、衆議院議員である米津等史のもとに秘書として入門した。
社長業から一転して今度は秘書業。全く勝手の違う仕事内容に、さすがのともたろうも苦労した。
しかし、政治の現場で働いた経験は貴重だった。
1997年(平成9年)〜
「消費税5%スタート」
「山一証券自主廃業」
「明石海峡大橋が開通」
「長野冬季オリンピック開催」
「黒沢明監督死去」
コンテスト合格・小沢党首の秘書に
米津等史代議士の下で秘書として鍛えられた後、自由党党首小沢一郎の門を叩き、秘書となった。その後、自由党内で開催された議員候補のコンテスト大会に出場し、見事合格。衆院小選挙区の自由党公認候補内定者となった。

多忙を極める中、政治学を修めるべく日本大学法学部政治学科に入学(現在は既卒)。

平成11年9月には長男、京太郎が誕生。
2000年(平成12年)〜
「消費税5%スタート」
「山一証券自主廃業」
「明石海峡大橋が開通」
「長野冬季オリンピック開催」
「黒沢明監督死去」
第42回衆議院議員選挙初出馬(2000年6月)
川島初出馬の選挙は、当時新生であった自由党にとっても初めて迎える衆議院選挙だった。「日本一新」の旗の下、街頭演説や講演会、ミニ集会を積み重ね、全力で選挙戦を闘った。
結果は31,612票を集めるも落選した。
2003年(平成15年)〜
「横綱・貴乃花が引退」
「イラク戦争勃発」
「新潟県中越地震」
「自由党・民主党の合併」
第43回衆議院議員選挙出馬(2003年11月)
民主党比例区公認候補として出馬、惜敗。
2003年(平成15年)〜
「個人情報保護法施行」
「元大関貴ノ花の二子山親方死去」
「JR福知山線脱線事故」
「都議会議員選挙で民主党が第2党に躍進」
「参議院議員選挙で民主党が第1党に躍進」
第44回衆議院議員選挙出馬(2005年9月)
民主党公認候補として東京9区選挙区にて出馬。
87,890票を獲得し次点。
現在、政権交代を実現すべく日々街頭で民主党の政策を訴えている。